物語2016年公開のアニメ映画「この世界の片隅で」が、テレビで放映されたので録画して観ました。
原作既読。
読み終わった時は、戦争を扱った漫画にも関わらず、ほのぼのとした絵柄と抑えた描写によって、悲惨さよりも戦禍を乗り越えようとする庶民のたくましさ、力強さを感じました。
なので読後感は爽やかで希望に満ちた漫画という印象でした。
ところが今回アニメ映画として鑑賞して、それまで持っていた印象とはまるで違った景色が見えてきました。
素朴な絵柄は原作に忠実ですが、色彩や光などの要素が加わったことで、主人公すずの描いた絵や背景画にもリアルさが加わりました。
また、登場人物の台詞の他に、音楽、効果音などが巧みに使われ、時間の流れとともに「ある一点」に向かってカウントダウンをしているような緊迫感がありました。
それゆえか、観終わった後、しばらくの間私は動くことができませんでした。
エンドロールが流れている間も、そのあとも、ずっしりと感じていたのは「重さ」です。
「暗さ」ではありません。
間違いなく戦争の悲惨さと、広島の悲劇を扱った作品であるのに、暗さではなくやはり希望に通じる明るさを感じたのは原作の読後感と同じです。
ただ違うのは、テロップで日付が表示され、劇中最大の悲しみを持って描かれる「ある一点」と、
日本人なら誰でも知っているもう一つの「一点」、8月6日に向かって、淡々と紡がれる物語の、その果てに起きる災厄。
より強く感じる悲しみと絶望感。
これらはやはり、動きのある映像だったからこその緊迫感でしょう。
なんと「重い」映画を見てしまったことか。
これが、最も強く感じた気持ちです。
物語の中で、主人公すずは、ある人物の死とともに、自身の表現手段として大切なものを失います。
そんな絶望の中でも、やっぱり人は生きていかなければならない。
すずだけではありません。
登場人物は皆、多かれ少なかれ大切なものを失いつつ、やがてその現実を受け入れていきます。
その過程が丁寧に描かれ、今に生きる私たちにもそれは共通の感覚だと気付かされます。
そう、この物語の登場人物は、現代に生きる人々と同じ感覚を共有しているのです。
人は、大きな悲しみに直面した時、立ち直るためにいくつかのプロセスが必要と聞きます。
・否定や否認
・怒り
・悲嘆
・受容
大きく分けてこのようなプロセスで人は悲しみを受容していくのだと聞きました。
すずがたどった気持ちの変化にも通じています。
今を生きる私たちもまた、大きな悲しみに遭遇すれば同じ反応を示すはず。
つまり、劇中の人物と視聴者である私たちは同じ人間であり、繋がっているのだということを感じるのです。
架空の人物であるはずの登場人物たちが、あたかも今を生きる私たちの本当の先人であるかのような気さえしてきます。
物語の最後に、1人の少女(子ども)が登場します。
その子の存在は、私たち視聴者を悲劇的な戦禍から日常生活への回帰へと誘ってくれます。
彼女の存在は、この物語に大きな救いをもたらしてくれます。
子どもは希望の象徴であり、再生の暗示でもあるからです。
そう、この物語は、大きな悲しみと、それを受け入れてかつ乗り越える人々の姿を描いた群像劇といえます。
何気ない日常の崩壊と、悲しみの受容、そして再生へと向かう人々の姿は、あまりにも普通で平凡な人々だからこそ尊い。
だからこそ、悲惨な物語の背景にも関わらず、観る人に希望と勇気をもたらしてくれるのでしょう。
一粒の涙とともに映画の余韻に浸り、再び、それなりに困難な私たちの人生に向き合う勇気を与えてくれる、そんな映画だと思います。
この物語に出会えたことに感謝しています。
日本人だけでなく、すべての人々に観て欲しい。
心からそのように思います。